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2009.10/13(Tue)

091013 ギャルゲーの主人公って一人暮らし多いよな 

少年マンガの中では、どうにも「親」というものの影が薄い。
兄弟などはまだしも、特に親となるとぜんぜん姿を見せない作品も多かったりする。
それはなぜだろうか。
それは、少年マンガが多くの場合思春期の少年少女に向けて描かれているからなのだろう。
小学生くらいまでの児童期の子どもにとっては親の存在やその影響力というのはとても大きいものだ。
特に幼稚園くらいまでの幼い児童にとっては親こそが人格形成のモデルであり、最重要な存在であると言ってもいい。
だが、思春期の少年少女たちというのは親離れを始める時期だ。
少しずつ自分の世界を広げて、自分と言うものを確立していく時期。
そんなときに子どもたちが意識するのは、むしろ周囲の友人たちだ。
周りにいる、自分とよく似た年頃の、けれども自分と違う人間たち。
彼らとの共通点や差異に目を向けながら、人と同じであるという社会性、人と違うという個性を育んでいく。
それと同時に、これまで自分のことを保護してくれると同時に支配もしてきた親からの独立を目指して距離を置こうとする。
そんな少年少女の視点から描かれる少年マンガの中で親という存在の影が薄くなるのは、むしろ当然なのかもしれない。

とはいえ、中高生くらいであればまだまだ親元で親と様々に関わりあいながら生きている場合は実際のところ多いはずだ。
ならば、目立つことはなくとも、細かな場面で親が少しくらい顔を出してもいいのではないかとも思う。
親がいなければ生まれてくることもなく、基本的にはそこまで育てられることもなかったはずなのだから。
多くの場合には親の影響なしにそのキャラクターのことを語ることはできないはずだ。
何かの事情があって親がいないとかいう設定でもないならば、親が少しは顔を出している作品のほうが私は好みだったりする。

しかしその一方で、マンガが読者である少年たちにとって好ましい世界を描き出す装置ならば、そこに親の姿がないのもうなずける話ではある。
思春期の、親に反抗することで自我を確立しようともがく子どもたちにとっては、それまでどおりに彼らに干渉し支配しようとする親の存在は鬱陶しくも感じられよう。
それがシャットアウトされ、楽しい友人らとの関係のみがクローズアップされるマンガの中の世界は、少年たちの理想の投影なのだと思われる。

支配・抑圧・父性を象徴する存在との対立、そして和解。
これは、独立というものを考える際の重要な要素である。
少年マンガの中でも、探してみればきっと直接は描かれていないキャラクターたちの親を象徴する何かが描かれ、それとの戦いが語られている可能性もある。
そこに注意してマンガを読んでみるのも面白いかもしれない。
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