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2011.02/19(Sat)

 

漫画でも小説でもアニメでもっていうかそれ以外の何でもいいんだけど。
「物語」には力があるなーって思う。
人の心を動かす力、感動させる力、生きていく活力をくれる、生きていてよかった、生きたいって思わせる力。
普段自分が生きるのに精一杯で目を向けることができない、自分以外の誰かが精一杯生きている姿に注視させてくれるのが物語で、それはそのまま生きている自分に目を向けることにも繋がる。

そんな物語を読まされるとすげぇなぁ、俺も描いてみたいなぁと思うんだけど。
だけど実際にペンを手に持つとしょぼぼぼんと描く気がちっちゃくしぼんでいくのはどういうことやら(笑
笑ってないで描きなさい俺。
という他人行儀。
【編集】 |  05:22 |  想ったこと  | TB(0)  | Top↑
2010.04/21(Wed)

100421 英雄っていえばFate思い出す。もしくはロクゼロ。 

机の上に軍師を飾れ!『最強武将伝・三国演義 アクションフィギュア』タカラトミー発売
昨今の歴史ブームの背景には、「不安定な社会のなかで、時代を作った英雄の生き方に、自分たちの“憧れ”や“手本”を求める気持ちがある」とタカラトミー。


というような記事を読んで、なんか英雄とか時代とかについて色々どうでもよさげに考えてみた雑記。
書くだけ書いて読み返す気になれません。
無駄に長ぇよ読みづれぇよそのくせなんか中身薄いよ。
でもいいの、書くのが楽しいの。
俺得。


さっくりまとめると、こんな感じ。
歴史上の英雄たちの特徴的なところは、彼らが時代を作った、つまり大勢の人間の暮らしや世界のあり方に深く関わる何かを成し遂げたことだ。
経済とか社会制度とか何かにつけて、明るい見通しの立たない閉塞感の漂う現代では、そんな状況を打破できる英雄を求める感情がまず憧れの中に含まれてるんじゃないだろか。
それに対して、最近のマンガのキャラクターは個人的で小規模な物語の中に生きていることが多いような気がした。
それは、昔の比較的シンプルだった時代には英雄という個人やもしくは少数の人間が社会を大きく動かすことが可能だったけど、複雑化した現代社会ではそれは難しくなっているってことが関係している。
英雄的個人の登場によって時代の閉塞感が打破されることを期待できない中で、むしろ個人個人が英雄にはなれないまでも英雄の精神的な強さを見習ってたくましく生きていくしかないという諦めに似た決意。
そういった感情もまた、英雄への憧れには含まれているのではないだろうか。

というような、なんかもう既に色んなとこで語られてて聞きかじってきたことを自分の言葉でまとめなおしてみた駄文は以下。
【編集】 |  22:32 |  想ったこと  | TB(0)  | CM(0) | Top↑
2009.12/14(Mon)

200912 しわすDecemberLove 

十二月っていやぁあれだ、師走だ。
師走ってのはこれはもう一年の中でも図抜けて異常事態だぜ。
だってそうだろう?
お師匠さんが走っちまうなんてこれは大変なことだ。
普通模範にならなけりゃならん存在だろうに、それがどたばたと慌てふためくなんて。
よく思い出してみろ、小学校の頃廊下を走り回ったりなんかしたら、おっかねぇ眼鏡かけた中年の女教師(小太り)がキィキィとよ、
「こら! そこ廊下走るんじゃありません!! この張り紙が読めないの!?」
なんて怒鳴り散らしてまぁうるさいのなんのって。
じゃぁてめぇは走らねぇのかっつーと走らないんだな、流石に普段は。
でもよ、それが走っちまうんだぜ、師走だから。
俺が思うにこいつは天変地異の前触れだ。
時期的に言って大雪あたりは覚悟しといたほうがいい。
雪山登山なんか計画してるやつは遺書くらい残していったほうがいいかもな。
遺書にはこうだ、「お父さん、お母さん、今までお世話になりました。おっかねぇ眼鏡かけた中年の女教師(小太り)は死ね。」
あぁ、ちなみに教師が走ってても調子に乗って鬼の首とったように、
「あー! 先生走ってるー! いーけないんだいけないんだ、この張り紙読めないのー?」
なんて間違っても言わないことだ。
何せ思わず走っちまうくらい忙しくて余裕のないおっかねぇ眼鏡かけた中年の女教師(小太りで夫と不仲)だからな。
鬼みたいな顔でお前の首がとられちまうかもしれねぇ。
たぶんそれも天変地異のうちの一つだ。
地震、雷、火事、親父。
時期的に言って火事が増えるから要注意だが、火事と親父の間あたりに女教師を入れても俺はいいと思うね。
さて、じゃぁお互い頑張ろうか。
あん?
そらっとぼけんな、お互いってのは俺とお前さ。
別に俺は誰かのお師匠さんじゃないしお前さんもどうだか知らんが、結局のところはそんなこた関係なく走るはめになるんだ。
なーに、走り回るはめになったとして走ることを楽しめれば問題はねぇ。
いよいよ今年も大詰めだ、大掃除してケーキ食って除夜の鐘ついて一息つくのはそれからでいい。
それまではノンストップさ、師走だからな。
【編集】 |  01:45 |  想ったこと  | TB(0)  | CM(0) | Top↑
2009.10/13(Tue)

091013 ギャルゲーの主人公って一人暮らし多いよな 

少年マンガの中では、どうにも「親」というものの影が薄い。
兄弟などはまだしも、特に親となるとぜんぜん姿を見せない作品も多かったりする。
それはなぜだろうか。
それは、少年マンガが多くの場合思春期の少年少女に向けて描かれているからなのだろう。
小学生くらいまでの児童期の子どもにとっては親の存在やその影響力というのはとても大きいものだ。
特に幼稚園くらいまでの幼い児童にとっては親こそが人格形成のモデルであり、最重要な存在であると言ってもいい。
だが、思春期の少年少女たちというのは親離れを始める時期だ。
少しずつ自分の世界を広げて、自分と言うものを確立していく時期。
そんなときに子どもたちが意識するのは、むしろ周囲の友人たちだ。
周りにいる、自分とよく似た年頃の、けれども自分と違う人間たち。
彼らとの共通点や差異に目を向けながら、人と同じであるという社会性、人と違うという個性を育んでいく。
それと同時に、これまで自分のことを保護してくれると同時に支配もしてきた親からの独立を目指して距離を置こうとする。
そんな少年少女の視点から描かれる少年マンガの中で親という存在の影が薄くなるのは、むしろ当然なのかもしれない。

とはいえ、中高生くらいであればまだまだ親元で親と様々に関わりあいながら生きている場合は実際のところ多いはずだ。
ならば、目立つことはなくとも、細かな場面で親が少しくらい顔を出してもいいのではないかとも思う。
親がいなければ生まれてくることもなく、基本的にはそこまで育てられることもなかったはずなのだから。
多くの場合には親の影響なしにそのキャラクターのことを語ることはできないはずだ。
何かの事情があって親がいないとかいう設定でもないならば、親が少しは顔を出している作品のほうが私は好みだったりする。

しかしその一方で、マンガが読者である少年たちにとって好ましい世界を描き出す装置ならば、そこに親の姿がないのもうなずける話ではある。
思春期の、親に反抗することで自我を確立しようともがく子どもたちにとっては、それまでどおりに彼らに干渉し支配しようとする親の存在は鬱陶しくも感じられよう。
それがシャットアウトされ、楽しい友人らとの関係のみがクローズアップされるマンガの中の世界は、少年たちの理想の投影なのだと思われる。

支配・抑圧・父性を象徴する存在との対立、そして和解。
これは、独立というものを考える際の重要な要素である。
少年マンガの中でも、探してみればきっと直接は描かれていないキャラクターたちの親を象徴する何かが描かれ、それとの戦いが語られている可能性もある。
そこに注意してマンガを読んでみるのも面白いかもしれない。
【編集】 |  17:10 |  想ったこと  | TB(0)  | CM(0) | Top↑
2009.03/07(Sat)

090307 ブラック★ロックシューター 

ブラック★ロックシューター。
いいですよね、素晴らしいです。
もうほんとカッコイイしカワイイ。
えぇ、今更です。
今更ハマってます。
ここ数日、毎日ニコ動でリピートえんえん流し続けてました。
流行ったのって結構前からだと思うんですけど、流行りものからは距離を置くという天邪鬼な性格をしているもので、今まであえて近づかなかったんですよね。
ただ、先日とあるサイトさんでブラック★ロックシューターのフィギュアの話題に触れてまして。
そのフィギュアの出来の良さ、キャラのかっこよさにとうとう原典にも触れてしまいました。
負けた感じです。
流行に屈した感じです。
とはいえ、もはや「流行」通り越して「定番」になった感じもします。
だってカラオケ配信されてフィギュア化までされてるしね。

pixivあたりで検索かければいろんな人が描いた大量のイラストが出てくるわけですが、それらの絵を見るにつけオリジナルの作者のhukeさんのデザインの凄さに畏敬の念を隠せない感じです。
黒髪ツインテ、ビキニ、ホットパンツ、ロングコート(コートっていうかジャージに見える)、ブーツ、馬鹿でかいロックシューター(岩弾砲)、そして左目から燃える青い炎。
個々のパーツだけを取って見れば、別にそこまで斬新な要素ってないんですよね。
でもなんかそれが組み合わさって、凄くカッチリとハマってるっていうか、絶妙に完成されてるっていうか。
誰が描いても、ちゃんとブラック★ロックシューターに見える。
これって凄いことだと思うんですよ。
二次創作でその人それぞれの解釈や手癖なんかが入ると、特徴の薄いキャラなんかは「誰?これ」ってなっちゃうこと多いんですが。
僕が自分でオリジナルのキャラを考えようと思ったときになるべくそうしたい、って思ってるのが、まさしく「誰が描いてもそのキャラに見えるようなデザイン」なんです。
自分と全然絵柄の違う人に描いてもらっても、デフォルメされても、それこそ小さな子供がうろ覚えで落書きしても、ちゃんとそのキャラだってわかるように描いてもらえるような、強い個性。
僕ごときにはなかなかそんなの作れたもんじゃないんですが、ブラック★ロックシューターにはそれがあるなぁって。
憧れます。

その、ブラック★ロックシューター「らしさ」っていう要素が、ブラック★ロックシューターというキャラそのものにもあるけれど、それ以上に小道具にあるんですよね。
具体的に言うと、市松模様の背景、鎖、十字架。
ブラック★ロックシューターの大ヒットは言うまでもなくニコ動のsupercellさんのPVなわけですが、そのPVの中で繰り返し提示されるこれらの小道具が、ブラック★ロックシューターを単体のキャラにとどまらず、一つの「世界」の中の住人として見る側に印象づけている。
歌の素晴らしさとも相乗効果で、一気にブラック★ロックシューターという存在の物語性、深みが生まれている。
それこそ、キャラを描かないでも、市松模様の壁と床の上にガレキと十字架と鎖があれば、それはブラック★ロックシューターに関係する絵だってわかってしまう。
一個のキャラクター自身に詰め込める要素の量には限界がありますが、ブラック★ロックシューターの凄いところはキャラクターの外側にキャラクターのシンボルとなる特徴を作り出した点だとも思えるのです。

ついでに、地味に名前が良いよなーとかも思ってます。
ブラック★ロックシューター。
声に出して言ってみても気持ちいいです。
ブラック★ロックシューター。
語呂、良すぎです。
ラックとロックや、シューとターで韻を踏んでるところとか最高です。
だから歌にしてサビの部分で名前を呼んであれだけ様になってるんですね。


なんか色々偉そうに語っちゃいましたが、まとめると要するに「ブラック★ロックシューターすげぇ、マジカッケー、大好き」ってことです。
ブラック★ロックシューターのことも最近知ったばかりで全く詳しくないし、キャラクター分析とかもまったくテキトーなこと言ってるのであんまり真に受けないでください。
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