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2010.04/21(Wed)

100421 英雄っていえばFate思い出す。もしくはロクゼロ。 

机の上に軍師を飾れ!『最強武将伝・三国演義 アクションフィギュア』タカラトミー発売
昨今の歴史ブームの背景には、「不安定な社会のなかで、時代を作った英雄の生き方に、自分たちの“憧れ”や“手本”を求める気持ちがある」とタカラトミー。


というような記事を読んで、なんか英雄とか時代とかについて色々どうでもよさげに考えてみた雑記。
書くだけ書いて読み返す気になれません。
無駄に長ぇよ読みづれぇよそのくせなんか中身薄いよ。
でもいいの、書くのが楽しいの。
俺得。


さっくりまとめると、こんな感じ。
歴史上の英雄たちの特徴的なところは、彼らが時代を作った、つまり大勢の人間の暮らしや世界のあり方に深く関わる何かを成し遂げたことだ。
経済とか社会制度とか何かにつけて、明るい見通しの立たない閉塞感の漂う現代では、そんな状況を打破できる英雄を求める感情がまず憧れの中に含まれてるんじゃないだろか。
それに対して、最近のマンガのキャラクターは個人的で小規模な物語の中に生きていることが多いような気がした。
それは、昔の比較的シンプルだった時代には英雄という個人やもしくは少数の人間が社会を大きく動かすことが可能だったけど、複雑化した現代社会ではそれは難しくなっているってことが関係している。
英雄的個人の登場によって時代の閉塞感が打破されることを期待できない中で、むしろ個人個人が英雄にはなれないまでも英雄の精神的な強さを見習ってたくましく生きていくしかないという諦めに似た決意。
そういった感情もまた、英雄への憧れには含まれているのではないだろうか。

というような、なんかもう既に色んなとこで語られてて聞きかじってきたことを自分の言葉でまとめなおしてみた駄文は以下。

【More・・・】

机の上に軍師を飾れ!『最強武将伝・三国演義 アクションフィギュア』タカラトミー発売
昨今の歴史ブームの背景には、「不安定な社会のなかで、時代を作った英雄の生き方に、自分たちの“憧れ”や“手本”を求める気持ちがある」とタカラトミー。


英雄
1.優れた指導力と洞察力で、民族や国家の危難を救ったり、独立運動の先頭に立ったりした先覚者。
2.降りかかる危険や困難に屈することなく信念を貫き通し(職責を全うし)、一般大衆から憧憬と畏敬の念をもって仰がれる存在。
(新明解国語辞典、第五版)

……だ、そうですが。

「英雄を必要とする時代は不幸」という言葉があるそうですが、要するに「英雄」という存在がそもそも「危難」や「困難」があることを前提として扱われているわけですから英雄と不幸の時代は切っても切れない関係なわけですな。
危難困難のまったくない時代など未だかつて人類史上に存在したかどうか怪しいところでしょうから、英雄が全く求められなかった時代というのもまたなかったとは思いますが。(二重否定使いすぎでわかりづれぇ)
それにしてもまぁ今の世の中の状況を眺めてみれば、タカラトミーさんのような分析にも説得力があるというもの。
もーここ何年かの日本の首相勤めた連中の頼りなさときたらため息の漏れることザルに汲んだ水の如しでもはや漏れるってレベルじゃねぇぞ全部こぼれてんぞって感じですもん。
過去に民を率い時代を切り開いた英雄たちの偉業に思いを馳せて彼らのような人間が現代にまた現れることを願いたくもなります。

ところで、タカラトミーさんの「憧れや手本を求める気持ち」という言葉を見て、私ふと思ったのが「それってマンガのキャラに対しても言えるような気がするなー」ということ。
まぁ俺の場合はって話ですが、割とマンガ(あるいは小説や映画などを含めたフィクション全般)に登場するキャラクターに対して、「こうなりたい」という憧れや「こう生きたい」という手本にしたい気持ちを感じることがあります。
それもさもありなん、特に俺が好むようなフィクション作品というのはだいたいが架空性強めの娯楽作品なのでたぶん「彼ら」の生きている世界というのは私たちが生きている現実より全体的に難易度イージーであり、因果逆転で「上手くいく」という結果が先にありきなことが多いのかもしれません。
例えるならオーフェンとかそんな感じです。
無職で常に空腹抱えていつも人に迷惑をかけているけど、困ったときには誰かしらが助けてくれるし、最低限自分のケツは自分で拭けるだけの実力を備えていて、なんだかんだで後から振り返ったときに楽しかったと笑うことのできる日々を送っている。
まぁ無職で身寄りもいないのになんだかんだでふらふらと生きていられるってやっぱりトトカンタっていう架空の街の中だからなんじゃないかなーと思いますが。
でもやっぱりなんかうらやましいというか、憧れます。
コギーなりバグアップズなりギリギリのところでは助けてくれるっていうのはなんだかんだでオーフェンの人望ゆえだろうし、「やればできる子」って呼び名が似合う確かな知力体力を持っている。
俺もそんなふうになりたいって思うんですよね。


というようなことをつらつら書いてて、ふと思う。
結局はフィクションと現実の状況の違いがどうこうとかそういう問題じゃない、個人の人格、パーソナリティに帰結する話なのではないだろうか。
仮にオーフェンが現実の日本にいたとしたら、案外トトカンタでなくてもオーフェンの彼のその人間性と能力(魔術はまぁ考えないにしても体力や機転、判断力など)をもってすれば力強く生きていけるんじゃないだろうか。
そしてすきっ腹を抱えてみじめな思いをしたりもするし、厄介ごとに巻き込まれてくたびれたりもしながら、なんだかんだで気の合う誰かと出会い友達になりそれなりに楽しい日々を過ごすのではないだろうか。
この想定において、はてじゃぁより大切なのはオーフェンの人格(思考の方向性や主義、感性)と能力(上記で上げたような)のどちらなのだろう。
いや、どちらがっていうか両方大事だし必要不可欠なのはわかってるんだけど。
その二つを併せ持ってこそのオーフェンだし、だからこそなんかオーフェンならどこへいったってしぶとく生きれそうって俺が思うポイントなのですが。
むしろこう考えるべきか、俺は一体オーフェンの人格と能力のどちらにより強く憧れを抱いているのか。
手本にしたい、という意味でならばおそらくそれは人格のほうだと思います。
能力というのは憧れることはできても手本にしようと思って容易く真似ることのできるものではありません。
それならまだしもものの考え方や行動様式などのほうが参考にできる部分があると思います。
どっかそこらの平凡な野球少年がイチローに憧れることはできても、彼の能力からもたらされた業績を真似ることはできないでしょう。
しかしその人格からもたらされる自己管理の徹底や練習への真摯さなどは参考に成り得ます。
いやでも待てよ、やっぱり野球少年がイチローに憧れるのはイチローのその業績ゆえであり、その業績は人格と能力の両方によってこそ成し得たものだから、そもそも切り離しちゃいけないものなのかな。
多分いけないのだと思います。
オーフェンがもし無能だったら多分単なるダメ人間だろうし、彼の能力の高さであっても性格がさらに破綻してクズになってたら強かろうがたくましかろうが魅力的には感じないし。


リアルタイムに考えながら打ってたので話があっちいったりこっちいったり支離滅裂ぎみになったので仕切りなおし。
英雄の話ですが、マンガとかの完全にフィクションの世界の住人なキャラクターと実在の歴史上の人物との違いについて考えてて思ったのですよ。
三国志なり日本の戦国時代なり、武将たちいるじゃないですか。
連中って何がすごいって、たとえばイチローみたいなスポーツにおける国民的英雄の個人的な業績とは違って、実際に国という大勢の人間の生活に関わるものに携わり、多くの人を動かして生きていたってところなんですよね。
戦国時代の武将的な英雄のみんながみんなそうだったわけでもないだろうし、本人たちは割りと個人的な欲望に基づいて動いてた可能性もありますが、でも結局のところは彼らの戦い、行い、その結果が世の中の在り方に大きく影響を与えていたんだよなぁっていう。
ところで、ものすごく個人的な話なんですが、僕が頭の中でこねくり回す妄想話って、なんかすごく小規模で個人的な事情や理由に基づいて行動に物語が終始してるんですよ。
たぶんそのほうが身の丈に合ってるというか考えてる自分も実感が沸くし、それをマンガとかにして人に見せたら見せられた側もわかりやすいと思うのですが。
そういう物語を考えている限り、俺の物語の登場人物は歴史上の人物たちのような魅力を持つことはないのでしょう。
そのようなことを考えていて、頭に浮かんだ作品がありました。
『ダイの大冒険』。
大魔王バーン率いる魔王軍が人間の住む地上世界を滅ぼして地下にある魔界に太陽をもたらそうとするその企みを打ち砕くべく、勇者ダイと仲間たちが死力を尽くして立ち向かう大冒険マンガ。
このバーン様の、大勢の部下を動かして世界をひっくり返し魔界に太陽をというスケールのでかさは戦国武将に通じるかっこよさがあります。
その理想の大きさは人格的な魅力であり、なおかつそれを達成寸前までこぎつけていた実力も兼ね備えていた。
うぅむ、かっこいい。
対するダイたちはといえば、バーンから愛する地上世界とそこに住む人々を守るという壮大な戦いを繰り広げはしたのですが、それは単にバーンの目的が世界に関わるものだったから結果的に世界に関わる壮大な、という話になっただけな気がします。
地底の魔界と地上の人間界をひっくり返すような大規模な戦いの「仕掛け手」であるバーンこそが世界を変え得る存在であり、バーンから世界を守る「受身」なダイたち自身は、別に世界を(善悪問わず)動かす存在ではなかった。
俺の脳内妄想ストーリーと『ダイの大冒険』のスケールの違いはバーンのような世界を相手取る存在の在不在の違いであり、もしダイ大の敵が個人的な恨みでたとえばアバン流の関係者だけを狙ってくるようなやつだったら、それがどれほど手ごわい力を持っていようともダイ大のスケールって小さくなってたんだろうなーと思ったわけです。
あ、一個割りとしっくりくる例が見つかったかも。
『るろうに剣心』の志々雄真実と雪代縁の違いですね。
るろ剣は京都編と人誅編で物語のスケールの大きさが違いますが、それは適役である志々雄と縁の、国盗りと剣心への復讐という目的の違いに起因するのは明らかです。
そして、剣心はといえばダイたちと同じく外敵へのカウンターとしての「受身な守り手」に過ぎないんですよね。
歴史上の英雄としてのかっこよさという意味では大勢の人の幸せのために維新志士として積極的に戦いに参加していた人斬り抜刀斎だった頃の彼のほうが当てはまるかもしれない。

思えばフィクションで世界をどうこうって言い出すのってだいたい悪役ですよね、仮面ライダーのショッカーが世界を征服するぞーみたいな。
で、主人公はそれから世界を守る側になる。
そして主人公本人は一個人であり別に世界に対する積極的な干渉者ではあろうとしない。
なんでそうなるんだろうなーって考えると、まぁ多分「世界を良くする英雄」を存在させることがすごく難しいからだと思います。
そもそも英雄とは危難困難から民衆を救う存在なわけですが、その危難困難のレベルの設定の問題なんですよね。
人間世界を滅ぼそうとするバーン、弱肉強食の摂理を全ての人間に押し付け強者たる自分が支配しようとする志々雄、いずれにしても非力で平凡な一般民衆にとっては脅威と言っていいでしょう。
それらの脅威から守り救ってくれるダイや剣心は英雄と呼んでもまぁ差し支えないとは思うのですが。
ではもっと現実的な困難はというと、たとえば志々雄という危機がなくてもるろ剣劇中には悪どい元志士様の役人どもとかたびたび出てきて非力で平凡な民衆ってやつを苦しめてたりしました。
さてはてこういった連中を日本全国で一律に根性叩きなおして世直ししてみせたらそれはもうものすごい快挙なんじゃないかと思うのですが、たぶん無理なんでしょうなぁ。
ところで今の日本の世の中で求められている英雄的人物ってこういうレベルの行いを期待されてるんじゃないかと思うんですよ。
誰か世界の情勢を不安定にさせてぼんくら骨抜き政治家を影で操って経済とかふらんふらんにしてーなんてことをやってる黒幕なんてやつがいるならそいつを倒せばハッピーエンドになれるんでしょうけど、現実にはそんなやつなんていなくて。
現実的で社会的なスケールのでかい危難困難をすぱーんと解決できる英雄っていうのは存在できないのかもしれない。
では次善として、迷いながらも間違いながらも閉塞した時代に活路を拓くことのできる、せめて希望を見せることのできる人間というのが求められるのかもしれないですが。
これも難易度は高いうえに、その迷いや間違いが結果的にはさらに大勢の人間に悪い影響をもたらして引っ掻き回すことになる可能性も高いわけですよねぇ。
このリスクやネガティブなリターンていうのが少年漫画の主人公にはそぐわないのかもなぁとも思ったり。
そういえば根性曲がった連中を一掃して世直し、っていうようなことを一応は正義感?からやってたマンガもありましたよね。
『DEATH NOTE』とか『アクメツ』とか。
どちらも主人公視点からの「悪いやつ」を皆殺しにするという血なまぐさい暴力的な方法で世界を変えようとしたわけで、もし世界に積極的に変革をもたらす存在を娯楽作品の中で描こうとするならば、正道の英雄からは逸脱したアンチヒーローとして描くしかないのかもしれません。
そういう意味では戦国武将たちってある意味ではおおらかでしたよね、戦でぶつかりあって殺しあって武力暴力で決着をつけることが社会的に認められてたわけですから。
しかも、斬り合う殴り合う殺し合う、ある種リアルな身体感覚がそこにはあったわけです。
人間一人に体一つ、命一つ。
確かで揺るがない対等な原則みたいなものがあった。
昨今の経済情勢やそこに潜む、あるいは顕在化した問題のせいで、どうにも現代人の中には膨れ上がったマネーという実体の見えない数値データへの不信感が募っている気がします。
しかしじゃぁどうすればそこから抜け出せるかわからないというジレンマとストレスを抱えて生きていかざるをえない。
だから、目に見える武器を持って目に見える敵と自分自身で実感できる力によって戦っていた、シンプルと呼べる過ぎ去った時代に憧れを持つ。
そういう意味では野蛮な暴力によって殴り合ったり斬り合ったり、そうして物語が展開し主人公たちが活路を切り拓く少年漫画っていうのも過去の歴史への憧れと似たような土俵に存在しているのかもしれません。

ちなみに憧れと手本、て話だったけど、歴史上の人物って手本になるのかな。
直接的にはならないような気もする、マンガのキャラと同じで今と昔じゃ状況が違うもんな。
参考になるのは英雄たちの能力ではなくパーソナリティで……結局じゃぁなんだ、やっぱり本質的にはマンガのキャラも歴史上の人物も大差はないのだろうか。
いや、差を見出すとすれば最近のマンガでは現代という時代の閉塞感を打破する英雄的キャラクターの構築の難しさゆえに過去の歴史上の人物のようなカタルシスをともなったキャラクター、物語が誕生しがたいので既に完成された歴史的人物が再評価されているという感じだろうか。

で、社会全体を救済してのけるような英雄が誕生しない中で、むしろ物語は個人化していくと。
たとえばオーフェンだったらトトカンタだろうが現実の日本だろうがなんとなく力強く生きていけるんじゃないかみたいな、そういう個人の強さでもって不安定な時代を生き抜いていくかっこよさに焦点が集まる。
む、待て、そう考えるとそもそも前提条件を間違えていた可能性もある。

昨今の歴史ブームの背景には、「不安定な社会のなかで、時代を作った英雄の生き方に、自分たちの“憧れ”や“手本”を求める気持ちがある」とタカラトミー。

不安定な社会のなかで、「時代を作った英雄」に憧れてるんじゃない。
結果的に卓抜とした能力で時代を作るという偉業を成し遂げはしたが、むしろ彼らの素晴らしさとは、彼らの生きた当時もまた不安定な社会であったろうなかで、そのたくましい精神性によって時代を作ってしまうほどにしっかりと生きていたことにこそ憧れや手本が求められているのではないだろうか。
ごく少数の英雄によって救済がもたらされるようなシンプルな時代などとうの昔に過ぎ去って、劇的な解決策を携えて多くを救う英雄が新たに現れることなど誰も期待できなくなった世の中で、諦め半分に一人一人がもっと強くならなきゃ、たくましくならなきゃともがいている。
今はそんな時代なのかもしれない。
もしこの時代を乗り越えて、百人の中の一人だけが百歩前に進むのではなく、万人が一歩ずつ前に進むということを成し遂げられたならば、人類という種の持つ文明はまた少し違った段階へと進むことになる……なら面白いね、というお話でした。



なんか綺麗にまとめようとしてなんかそれっぽくまとまった気がするのでいったん区切りつつ、すぐまた気づいたのでこれは追記ということで。
最後の部分、憧れというものについて二重の意味の片方だけを見ちゃってる気がする。
はっきりさせると、英雄という存在に対する憧れは二種類あって、他者としての英雄への憧れと、自己に投影する憧れがあるのだろう。
時代を作る英雄、そんな存在が今の世の中にもいて欲しい、現れてくれないかなと願う気持ちが他者としての英雄への憧れ。
だが実際にはそんな存在の登場には期待が持てない中で、自分も時代を作る英雄にはなれずともせめて英雄たちがそうであったように不安定な時代の中でしっかりたくましく生きたいと感じるのが自己へ投影する憧れ。
その両方がないまぜになって最近の歴史ブームの影に潜んでいるのかも。
【編集】 |  22:32 |  想ったこと  | TB(0)  | CM(0) | Top↑

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