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2008.10/12(Sun)

081012 Draのダサダサファッション心理学<自己分析編> 

久々に服買って来ました。
ほんとにもう久々。
いつ以来だ。
下手すると今年初かもしれない。
要するにそんな感じの人間です、察してください。
どうも、ドラです。

いやさー、なんかもう別に服なんて耐寒・吸汗性能があってあと隠すとこ隠せてればそれでよくない?とか思っちゃうんですよ。
だからいかにもふぁっしょんなんて気を使ってませんて感じのもっさりダサダサTシャツとGパンで町の中を歩いていられるんですけど。
3000円のシャツ一枚買うくらいなら500円のマンガ本6冊買いたい。
5000円のパンツ一枚買うくらいならゲームソフト1本買いたい。
1万円の上着とか買うくらいなら……最近ちまちました買い物ばっかりで万単位で買いたいものとか思いつかないな。
まぁマンガとか色々買えるしちょっと贅沢な外食とかできるし貯金しとけばいざってときに多少気が休まりますよね。

以下、服に関して思うことあれこれ。

【More・・・】


人間は自分自身の性質を他人を計る定規として投影するんだそうです。
つまり、ケチな人は他人をケチかどうかで計る。
怒りっぽい人は他人を怒りっぽいかどうかで計るし、オシャレな人は他人をオシャレかどうかで計るわけです。
じゃぁ俺はっていうと、オシャレなんて興味ないので人の服装にもほとんど興味を払いません。
待ち行く人たちの服装とか参考に思い出そうとしても、全然思い出せない。
だから、自分の服装に気を使えとか仮に言われても、そもそも服に関する知識が全くないので何をどうすりゃいいのかさっぱりです。

余談ですが、自分が普段他人をどういう基準で見ているか、それを冷静に考えると気づいてなかった自分の側面に気づけるかもしれないですよ。
ドラはまず、人を絵を描いているかどうかで見ます。
描いているならばどんな絵柄で、どの程度の上手さなのかというのが凄く気になります。
その興味が人と人を結びつける接着剤になるのでしょう。
「類は友を呼ぶ」は互いに同じものさしを持つもの同士の価値観の一致なのかもしれません。


別に俺が興味ないからといって、服が重要じゃないとかそんなつもりはないんですよ。
むしろ凄く重要だと思う。
ファッションによる住み分けってあるじゃないですか。
性別や年齢、性格や趣味嗜好、職業や社会階層にいたるまでの自分に関する諸情報の可視化とでも言いますか。
見た目ギャル男っぽい人はやっぱりギャル男っぽい人たちとつるんでて行動とか立ち居振る舞いなんかもギャル男っぽかったり(どんなだ)、落ち着いた大人っぽい色合いの服を好んで着る人はやっぱり大人しかったり、派手派手~な服の人はやっぱり色々何かと派手だったり。
自分に関する情報を、自分を見る人たちに伝えるっていう時点で、ファッションも立派なコミニュケーションの一種です。
あるいは自己暗示の一種でもあるかもしれない。
「自分はギャル男だからギャル男風ファッションをしてる」のではなく、「ギャル男風ファッションをしているからギャル男のように振舞う」みたいなね。
案外夜に繁華街で馬鹿笑いしてる兄ちゃんたちも、髪の毛黒く染めさしてピアス外さしてピシっとしたスーツなんか着せたら背筋伸ばして丁寧な敬語で喋り出したりするかもしれません。
ファッションていうのは、(基本的には)自分で服を選んでそれを着るわけですから、自分自身が「そういう存在でありたい」という願望の表出としても受け取れます。
つまりコスプレみたいなもんですよ。
モデルとか歌手とかのファッションを真似してるような人たちっていうのは昔からいますしね。
ちょっと古いところだとアムラーとか。(今の十代とかに通じるだろうか)
そういうのも憧れの人のファッションを自分も取り込むことで、憧れの人に内面的にも近づきたいという願望の表出であるといえます。


では、俺がファッションに気を使わないっていうのはどういうことなんだろうとちょっと考えてみる。
ファッションは今言ったとおり、自分の内面が無意識のうちに出ているともとれるし、あるいは意識的に表現しようとしているともいえる。
「着るものに気を使わない」というのは意識を払わないということなので、無意識的な自己表現です。
さて、ここで重要であるのは、「一切表現せずに内面がにじみ出ている」のか、それとも「無意識のうちに自分を表現してるのか」ということ。
俺は着るものに気を使わない、つまり「他人の目を気にしない」「大雑把でだらしのない」人物。
そういう性格が「にじみ出ている」。
別にこれで十分正解なんですけどね。
否定できないですし、自分でもそうだと思いますし。

だがそこで、もう一歩想定を踏み込む。
「他人の目を気にしない」「大雑把でだらしのない」という性格を、「あえて外に出している」、つまりそれらは「自分がそうでありたいという願望」、「他人にそういう風に自分を見て欲しいという自己呈示」であるという考え方。
「俺は見てのとおり服なんか全然気を使ってないんだぜ、人の目なんか気にしない、他人にどう思われても気にしないんだぜ。だ・か・ら、俺は俺の好きなように勝手に振舞わせてもらうぜ!」
この厚顔無恥な開き直り、愚かで自己中心的でKYであることをあえて「演技」することで、自分自身の罪悪感を軽減する。
「厚顔無恥」の厚い面の皮の役割を、野暮ったい服装に負わせている。
そういう考え方もできるわけです。

どっちにしろ結果は変わらず人間として最低ですけども。
いや、だからこそ自分の中での自己嫌悪や罪悪感を軽くするためのロジックが必要なのです。

つーかまぁ、もっと単純に「いかにもダサダサなかっこしてりゃー逆にそういうもんだと納得されるんじゃね?」って考えな気もする。
中途半端に気を使ってると、かえってなんかファッション的なツッコミ入りそうだから。
いっそもうすげーダメなら言うことないやみたいな。
絵でもあるじゃないですか。
多少なりとも描けてる人には、人体のバランスだのパースだの色々ダメ出ししようもあるけど、ほんとに初心者過ぎてもうどこからアドバイスしたらいいのかわかんないみたいな時。
マンガ描き始めて一ヶ月の人の原稿とか見るとそういう気分になるんですけど。

色々話があっちこっちにいったけど、結局まぁ「面倒だから着れればいいや」で落ち着くんですけどね。
うーん、ダメ人間。
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