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2009.01/04(Sun)

090104 神はいない、人は自立しない、だが絶望しない 

それに明確で実利的な意味などなかったとしても、厳然としてそこにあり続ける慣習というものが存在します。
例えば初詣とかそうですよね。
私は神仏の実在をさほど信じていないので、ご利益があるとも思ってませんし。
毎年年始に神社の境内にごったがえす有象無象の人並みの中で、どれだけの人間が心底から神を詣でるために参拝していることやら。
何か得するでなし、宗教的な意味があるでなし。
それでもみんな初詣にいくんですよね。
そこにある感情というのは、むしろ神を詣でるだのご利益を求めるだのといった外向的な要因ではなく、逆に内向的な要因なのでしょう。
つまり、例えば暦の変わり目、年の始めに自分の中でのけじめをつけにいくといったような。
賽銭を投げて拍手を打ち「○○でありますように」などと願をかけるのは、自身の願望・目標を自分の意識中で明確化した上で、実際に神仏からのご利益があるかどうかはさておいて「お賽銭あげて手うったんだから大丈夫」と安心のための自己暗示をかける。
それによって自分の精神が健全に保たれるならば、それは定期的に訪れる通過儀礼として有用なのだと思います。
そも、宗教あるいは慣習というのはそういうものなのかな。
宗教とは神を崇め神を信じることですが、その本質はそれによって精神の安定、自己と社会に規律がもたらされるというその逆説的に副次的な効果なんでしょう。
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